殺人犯と精神鑑定 2001.6.16記

2001年6月8日、大阪池田市で小学生低学年児童が8人も殺害される事件が起きた。犯人の男は犯行の直前に精神安定剤10錠を飲んだとか精神病に入院歴、通院歴があったことから報道関係も犯人の人権を考慮して名前を伏せて報道するところもあった。(翌日からは全て実名報道になったが)

この事件に限らず、日本の犯罪も残酷かつ想像を絶するような事件が多発している。それと同時に犯罪者の精神が犯行当時、正常だったか異常だったかを鑑定する、いわゆる「精神鑑定」という言葉も必ずといっていいほど目や耳にするようになった。

私などが語れるほど単純なことではないのだろうが、ここは素人の見解として少し思うことを書いてみたい。
人間が人間を殺害する時の気持ちに正常な場合などあるのだろうか。どんな場合も精神に異常をきしているのではないだろうか。だから、犯行当時の精神状態を鑑定する意味など本当に必要なのだろうか。
この精神鑑定は刑法39条によるものだ。刑法39条には「心神喪失者ノ行為ハ、之ヲ罰セズ」「心神耗弱者ノ行為ハ、其ノ刑ヲ減軽ス」とある。犯行当時に精神に異常が見られた場合は、処罰を軽減しなくてはならないし、最悪の場合は処罰することすらできないということである。

極端な言い方をすれば、殺害を計画的に行う場合、事前に準備をすることによってこの刑法39条の恩恵を受けることができるのではないだろうか。
自ら、精神の異常を訴えて精神病院に診断を受けに行く。病院のほうも外傷などと違い心の病気だからある程度は本人の申告を真に受けるしかないだろう。運良く?入院できたらしめたものだ。何日か入院することにより、立派に精神病院入院歴を作ることができる。退院後は通院だ。これも何日間か通院することにより精神病院通院歴を作ることもできる。こうなれば精神病の後遺症ありという履歴ができあがってしまう。そして予定通り犯行を実行する・・・。こんな恐ろしいことが簡単にできてしまうのではないだろうか。

この刑法39条を扱った映画があった。1999年公開の森田芳光監督作品『39・刑法第三十九条』だ。映画には二重人格者の疑いのある犯人、堤真一と精神鑑定人の鈴木京香が出演している。この映画で二人のロマンスが始まった、ということだけ注目された。映画自体は題材は興味深いのだが、あまりにも現実離れしている内容だし、二重人格者というと急に白目をむく演技しかできない堤真一が恥かしくて見ていられないものだった。(NG出さない監督も監督だが)
こんな映画だが、改めて見ると考えさせられるものがあるかもしれない。

刑法39条を始め、最近は加害者の人権ばかり優遇されているような気がしてならない。もちろん人権ということは大事なことだし、デリケートなものだと思う。
しかし、精神鑑定が人権擁護からのものだとしたら、それは人間として裁判を受けられないということを証明することにもなるわけだ。その証明をすることが実は一番人権擁護になっていないのではと思うのはちょっとひねくれすぎだろうか。
木村拓哉が主演の検事をテーマにした『HERO』というドラマがあった。その中でなぜ検事になったか?という問いかけに木村拓哉は言うのであった。「加害者の人権ばかり取り上げられるが、被害者の人権やその家族の悲しみをもっと考えてあげるには検事になるしかなかった」と。
確かに、加害者は裁判の場でも言い訳や反省の弁を述べることができる。しかし、殺害された被害者本人は無念の言葉すら言うことができないのだ。

罪を憎んで人を憎まず。とも言うが、ここまで犯罪が残虐化、多様化した時代に机上の空論的な理想で犯罪をとらえていて良いのだろうか。

小さな貴重な命に冥福を祈りたい。


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